Do not eat 話し

「食えない」話し。

おーきいねえちゃん

三姉妹の末っ子は、一番目の姉を「おーきいねえちゃん」・二番目の姉を「ちーちゃいねえちゃん」と呼んでいる。

 

今日は四年前、突然に亡くなった「おーきいねえちゃん」の命日。

「おーきいねえちゃん」は Barあん のママだった。

亡くなったあとに店に通ってくださった方々(分かる限り)に寄ってもらいお別れ会を開いた。

おーきいねえちゃんはカラオケが嫌いだったので、広いジャンルの曲を流していた。harurin・ちーちゃいねえちゃんも同じく、あれこれ聴いていた。

お別れ会で店にあるCDを次々流していたら「ウィスキーは(が)お好きでしょ〜♪(石川さゆり)」と聴こえてきたので、つい「これ嫌いやなぁ」と言ってしまった。それを聞いたよっこちゃん「かよちゃんが好きやった曲やぞー」。

 

不躾な末の妹、ごめん。

 

「おーきいねえちゃん」とは年が離れていたので、わたしが幼い頃は子守りをたくさんしてくれた。おんぶしていたらいきなり肩に噛み付かれた、と聞いたことがある。サルか、わたしは。寝坊が多かったわたしを小学校まで送ってくれた。わたしを送ったあとに高校へと歩いた「おーきいねえちゃん」は遅刻したのか? 年の近い「ちーちゃいねえちゃん」にもずいぶんとかわいがってもらった。現在もだから「もらっている」だ。

 

姉二人は行儀よく勉強をきちんとし親に叱られること少なく育っていったが、末っ子はやりたい放題。買ってもらった靴は直ぐに穴があくので、「どしてお前だけ物持ちが悪い!」と父に言われた。親戚にも「宮ヶ瀬橋の下で拾った子」と言われていた。

小学校の写生大会のとき、お城山で絵を描いていたらタクシーの運転手がそれぞれの絵を見ながらわたしのところへ来て名札を確認し「やっちゃんどこの末っ子かぁー、お父さんは器用やけどなぁ」とぬかした。へいへい、どうせ橋の下で拾われた子供だよぅと思ったことはよーく覚えている。

 

毛筆など字の巧かった父に似て手紙や葉書をすらすら書く「おーきいねえちゃん」。

花を活けるのが巧かった父に似て華道を学んだ「ちーちゃいねえちゃん」。学院で活けた作品を「作品花図」にきれいに写している。

わたしは、、、何にもなーい。

 

最近は「おーきいねえちゃん」「ちーちゃいねえちゃん」と呼ぶことは少なくなってしまったなぁ。

 

「おーきいねえちゃん」の墓へ朝一番に行ってくれた「ちーちゃいいねえちゃん」、おおきに。